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東玉物語

東玉物語

いまに伝わる卓越した技はこうして生まれた
 東玉工房の歴史は人形の町・岩槻の歴史とともにあります。江戸時代より城下町、宿場町として栄えた岩槻は人形作りに適した桐と水に恵まれ、現在、人形の生産高日本一を誇る町に発展しました。
 嘉永年間、岩槻城主の御殿医、戸塚隆軒は、医業のかたわら人形作りを趣味としており、 その作品のひとつを城主に献上したときにおほめのことばとともに「東玉 」の作号を賜りま した。この由緒ある雛匠東玉の名は代々受け継がれ、現在6代目雛匠東玉 に至っています。

岩槻における人形の起こり
 岩槻は城下町であるとともに、日光東照宮が造営されてからは、日光御成街道の宿場町で もありました。
 この地での人形づくりの起源についてはいくつかの説がありますが、そのなかのひとつと して次のような言い伝えがあります。
 今から約300年前、東照宮大修理のおりに呼ばれていた京の仏師・恵信が帰途についたと き、 岩槻で病に倒れてしまいました。
 医師の必死の看病により回復することができましたが、そのままこの地にとどまり、桐の粉で人形の頭を作る方法を編み出して後世に伝えたというのです。
 そしてこの恵信の治療にあたった医師・戸塚某こそ雛匠東玉 の祖先でありました。



東玉物語

東国における人形づくりの王さま
 恵信を助けた医師の戸塚某は、教えられた人形づくりを本業のかたわらたしなむようにな りました。その後、彼の子孫で、嘉永年間(ペリー来航のころ)に藩医であった戸塚隆軒も 人形づくりを趣味にしていました。
 あるときその人形を藩主に献上したところ斬新な作風にいたく感動され、当時有名だった 西国・京の人形師にたいして「東国における人形づくりの王さま」という意味で、「東王」 という名をたまわりました。しかし、隆軒は王では恐れ多いということから王に点をつけさ せていただき「東玉」と号しました。2代目も医師のかたわら人形製作をたしなみ、3代目 の貞造に引き継がれました。そして4代目の巌にいたっては、幼少のころから年季奉公に入 り、人形づくりに専念する ようになりました。

桐と水が岩槻人形の命です
 そもそも岩槻のはじまりは日本各地が戦乱に明け暮れていた室町時代にはじまります。
 岩槻周辺は昔から桐を産し、タンスや下駄の産地として知られていました。その良質の「桐のオガクズ」を練り固めて人形はつくられます。
 またこの地域の水は人形づくりに欠かせない胡粉を溶くのにたいへん適していました。こ のような自然の恵みが今日ある岩槻人形を育んできたのです。
 さらに近くに江戸という一大市場があったことが、岩槻の人形づくりを盛んにする要因と なりました。