ひな祭りに欠かせない雛人形は伝統の匠の技の結晶です
ひな祭りといえば、雛人形を飾るイベントとして広く浸透しています。
お子様の誕生をお祝いする、成長をお慶びする、日本特有で昔から続く、家族のイベントです。大切なお子様の成長に寄り添い、見守る、長く大切にお飾りいただく為に、
雛人形は、人形職人さん達が、一つ一つ手間と時間を、そして伝統の技を駆使して作ります。
歴史的にみると、元々雛人形は古く天児・這子・紙雛などの、人に付いた汚れや災いを祓う、身代わりという存在として生まれました。雛人形は大切なお子様の無事・健やかな成長を祈る人形(ひとかた)ですから、人形職人さん達が心を込めて丹精に作る雛人形を飾って、ひな祭りをお祝いすることに意義があるのです。その人形職人さん達の技は一朝一夕に生まれたものではありません。江戸時代から大切に受け継がれ、更に研きをかけて伝えられた、卓越した技術によって作られた雛人形なのです。
ひな祭りに雛人形を飾る、古く平安時代から伝わる、日本独特の精神文化と魂のこもった手作りの人形(ひとかた)の融合から生まれた、美しい伝統なのです。
雛人形の起こりはひな祭りよりも古く平安時代の「ひいな遊び」といわれています
雛人形のルーツは古く弥生時代の「埴輪」と呼ばれる埋蔵品に始まります。これはお墓の中で一人きりでは寂しいだろうと考えて、家来や動物の形をした土器を一緒に埋葬しました。ここで「身代わり=人形(ひとかた)」という精神文化が生まれます。
平安時代になると産室や赤ちゃんのいる部屋に、天児・蓬子(這い這いした赤ちゃん)といった人形を飾る風習が生まれました。この時代は、死産や生まれて間もなく亡くなる乳児が多く、この赤ちゃんの災いを人形に身代わりしてもらい、無事成長して欲しいという切実な親心が生んだ風習です。
この文化と、幼い女の子が紙で人の形や道具を作って遊んだままごと遊びが結びついてゆき、やがてひな祭りを楽しむイベントや雛人形を飾り、家族揃ってお祝いをする歴史ある伝統文化へと発展していったのです。
3月3日の桃の節句と結びついた紙人形の「ひいな遊び」がひな祭りに
鎌倉・平安の時代に仏教などと共に中国の陰陽五行説等の思想が日本に入ってきます。中国から伝わる縁起の良い陽数(割れない奇数)が重なる日、1月1日・3月3日・5月5日・7月7日・9月9日の良き日が、丁度日本の四季の変わり目に当たる事から、厳しい四季の移り変わりの節目に穢れを祓ったり、神様に供物を捧げたりして無事過ごす為の祈りの儀式として、日本独自の五節句文化が生まれ、定着していきます。
この中の3月3日の上巳の節句は、旧暦では今の4月頃、厳しい冬が終わり、暖かい春を迎える節目の行事で桃の節句とも呼ばれます。桜も美しく咲き、草木が息吹く季節ですが、中国では桃に特別な効能があると信じられていたため、桜では無く桃の節句となったのです。この節目に、ひいな遊びで作った人の形をした紙に、自分の汚れや災いを移し、川に流す風習が生まれ「流し雛」と呼ばれました。
ひいなとは小さくて可愛いものという意味です。このような背景によって、上巳・桃の節句に「ひいな遊び」を楽しんだり、「流し雛」を行ったりするひな祭りという文化が形成されて行きます。そしてこの紙で作った人形(ひとかた)が段々男女一対の形になっていくのです。
江戸時代には現在の形のひな祭りの人形としての雛人形となりました
江戸時代初め頃に、男女一対の紙で作られた人形(ひとかた)はやがて帝とお后、お殿様とお姫様を表す豪華な姿となり、神雛と呼ばれ、上巳・桃の節句に飾られる様になります。同じ頃、十二単のお姫様を押し絵技法で立体的に表現した掛け軸が生まれます。これを機に立体的な男雛女雛の人形が考案されます。
江戸時代中期には、現存する雛人形として一番古い高倉雛、細長い顔と布団の様に分厚く着せられた衣裳が特徴の享保雛、現在の雛人形に一番近い古今雛、丸くて愛嬌のあるお顔の次郎左衛門雛といった雛人形達が、幕末までに次々と登場するのです。これは木の胴体に針金を通して衣裳を着せる衣裳着人形と呼ばれる雛人形です。
これとは別に、宮大工達が余った木材で人や動物の形を作り、そこに衣裳を貼って人形に見立てる賀茂人形が京都に生まれます。そして自然に男雛女雛が生まれ、ただ単に布を貼るのでは無く、筋を掘ってその溝に衣裳を押し込んで着せる豪華な雛人形が生まれます。木の目に布を入れることから木目込み人形と呼ばれる様になり、衣裳着人形の重ね着の豪華な仕立てに対して、自由な造形が表現できる芸術性の高い雛人形として広まっていくのです。
近代では時代の移り変わりとともに雛人形も変化し、匠の技術は頂点へ
江戸時代後期には、公家・大名家では、男雛女雛の雛人形だけで無く、ひな祭りを豪華に彩る三人官女や音楽を演奏する楽人たちの人形、ままごと・ひいな遊びが出来る豪華な調度の木製嫁入り道具が生まれます。これが庶民に伝わり五人囃子になり、更に左大臣右大臣や三人仕丁も全て飾る七段飾りが登場するのです。
明治時代は文明開化の時代としてひな祭り・雛人形が日本全国津々浦々まで広まっていきました。大正時代から昭和初期には、雛人形が豪華な神殿作りの中に飾られる「御殿飾りの雛人形」が大流行します。戦争の時代には生産も自粛されましたが、戦後の高度成長期と共に雛人形の大きさも大きくなったり、十二単さながらの豪華な仕立てに拘った高級品になっていきます。
また木目込み人形では、現代創作作家の方々の影響を受けて、芸術性の高い、個性豊かな人形が生まれます。現在は、「江戸木目込人形」として国から「伝統的工芸品」の指定を受けています。
東玉工房では、現代創作人形作家の第一人者である「鈴木賢一氏」を主任作家として岩槻に迎え、芸術性・技術難度の高い雛人形(木目込み人形)の生産を始めます。その伝統は、弟子である野村嘉光や女流作家の喜久絵・ゆかりへと受け継がれています。
まとめ
日本には、季節の変わり目に災厄を払い健康長寿を願う、五節供という伝統行事があります。元々「節供」は「供」という字を使っていました。神さまに、その季節に収穫された旬の食物をお供えして、ご加護をお祈りした行事が「節供」であります。1月7日の「人日」、3月3日の「上巳」、5月5日の「端午」、7月7日の「七夕」、9月9日の「重陽」が、日本のご節供です。桃の節句や端午の節句もその一つです。生まれてきた赤ちゃんの健やかな成長を願い人形を飾るという、1000年以上も前から続く伝統行事は世界に類例がなく、日本独自のものです。
そしてこの伝統行事に欠かせないのが、雛人形です。長い歴史のなかで、いろいろな形や飾りを変遷してきましたが、その時代その時代の人形職人の、卓越した技や、赤ちゃんの健やかな成長を願うという作り手の心は、いつの時代にも変わることなく、日本の大切な伝統行事として、これからも受け継がれていくことでしょう。