人形に語りかけ、その声を聴く
賢一という一流
「鈴木氏の作る人形を拝見すると、手足の動き、曲げる、開く、握る・・・その一瞬、一瞬の息の吸い方、吐き方まで留意なされているようです」(十二代目・市川團十郎氏/『鈴木賢一作品集』より)。
細部に至るまで妥協を許さないこだわり。人形を心から慈しみ愛する心。鈴木賢一の人形づくりを表現する時、さまざまな形容がなされます。おそらくそのどれもが正しいでしょう。けれどもし、たったひとつを選ばなければならないとしたら、本人が遺したこの言葉こそ、彼の人形との向き合い方を示すにもっともふさわしいのではないでしょうか。
「人形との会話を楽しんでいます。こちらから語りかけ、人形からも語りかけてくる。この会話がなければ、本当の人形はつくれません」(鈴木賢一 その人と作品/東玉)
鈴木賢一は1931年より御所人形作家の最高峰、野口光彦先生に師事。1953年には現代人形美術展特選。1955、56年には日本美術展覧会入選するなど、気鋭の人形作家として活躍していました。
時は高度経済成長の始まり。誰もが「右肩上がりの成長」が未来永劫続くと信じていた頃。東玉社長・戸塚巌、専務の健藏(いずれも当時)は、「東玉、そして岩槻の人形づくりに必要な人物」として鈴木賢一の招聘に動きます。目的は「人形づくりの技、芸術的価値を向上させること」にありました。大量消費の時代が訪れようとしていた時、「伝統工芸の価値や意義を守っていくため、その波に呑み込まれることなく、自らがより一層の高みを目指さねばならない」。そのためには鈴木賢一という“一流の作家”が必要だと考えたからです。
以和喜
五月晴れ(鯉のぼり)1989年(平成元年) 埼玉県展(招待)
鈴木賢一が見せた独創
1964年、招きに応じ東玉工房の主任作家となった鈴木賢一は自身の得意分野である御所人形のほか、江戸木目込人形の制作をスタート。<賢一>ブランドの雛人形を発表します。
今では東玉の顔とも言うべき木目込人形ですが、本格的な開始はこの時。岩槻での木目込人形制作も当時はほんのわずかしかありませんでした。「岩槻木目込人形の歴史は<賢一>以前、以後に分けられる」と言う声も聞かれるほど、鈴木賢一の影響は大きかったと言います。
<賢一>でまず発表された雛人形は立雛でした。立雛は夫婦雛とも呼ばれ、雛人形の起源と言われる祓い(はらい)の形状を人形化したもの。最初の作品を伝統に即した立雛から始めたのは、雛人形に対する鈴木賢一なりの礼であったのかもしれません。ただしもちろんそこは作家です。ただ基本に忠実で、旧作を模した作品をつくるわけではありません。鈴木賢一は東玉での二作目となる<寿々喜雛>で早くもその独創性を見せます。
通常、立雛の男雛は袖を左右に広げた奴型(やっこがた)のフォルムが伝統的な形です。それを鈴木賢一は手を前に組み、笏(しゃく)を持つ、威儀を正した所作にしたのです。雛人形は宮廷の婚礼を表現したものとされますが、このことによって「男雛の威厳、品格をより強く表現できた」。あるいは男雛を父とするなら「家長としての父の力強さを示している」と解釈できるなど、その芸術性が高く評価され、後に天皇、皇后両陛下への献上品にもなります。
「信州の松本地方では七夕飾りにどの家でも紙雛を軒先に吊り下げるのを絵だか写真だかで見て」と業界紙のインタビューで鈴木賢一はその発想のヒントを明かしていますが、この他にも「鶴が羽ばたこうとしている姿」と評されるなど<寿々喜雛(すずきびな)>は人によっていくつもの解釈が成り立ちます。まさにそのことこそ、この作品が単なる雛人形の枠を超え、芸術の域にあることを示しています。
鈴木賢一の技
<寿々喜雛>に代表されるように、鈴木賢一が東玉、そして岩槻にもたらしたもののひとつに「雛人形の芸術的な価値を高めた」ことがあります。それはもちろん第一義的には<賢一>の作品、その個々の芸術的な質の高さです。しかしもっと大きな貢献は、この立雛製作へのアプローチでも見せた、柔軟な解釈を職人たちに示したことでした。
守るべき伝統、守らなくていけない土台部分は大切にしながら、人形と語り合うことで生まれる感性を信じ、表現する。伝統工芸をただの決められたルーティーンワークのみにするのではなく、持つ創造性、芸術性も大事に育てていかなくてはいけない。まさにそんな人形づくりの誇り、人形づくりと向き合う姿勢を自らの仕事を通して伝えた。それは今につながる東玉工房の大きな財産となっています。
一方、鈴木賢一を語る際、忘れてはならないのが、岩槻の人形づくりの技術向上に大きな役割を果たしたことです。 「自分の技術はあの世まで持っていくことはできないのだから」「私の知っていることは、一つ残らずお教えします」
賢一について語る 東玉会長:戸塚 隆
(左)社長 :戸塚大介(右)会長:戸塚 隆
職人の仕事はある意味、個人に閉ざされた世界。人が訪ねてくると、時に木型などを布で覆って隠すといったこともあったと言います。そんな中にあって鈴木賢一は常にオープン。自分の技術、知識、経験を隠したりすることはありませんでした。むしろ聞かれればなんでも答え、「先生に電話で質問したら『どこだ、どうした』って、すぐにバイクで飛んできてくれた」などという逸話が、ここ岩槻では枚挙にいとまがないほどあります。
誰にでも気軽に、気兼ねなく教える。その一方で鈴木賢一は「岩槻の皆さんたちは、もう立派な一人前の職人さんなのですから」と言い、自分から教えるということはありませんでした。あくまでも「聞かれたら答える」。それは鈴木賢一の職人に対する敬意の表れ。あるいは江戸っ子である彼なりの “粋”だったのかもしれません。
賢一を継ぐ者
古代織物の研究から生まれた「美術織物」龍村裂(たつむらぎれ)を人形業界で初めて使用するなど、その後も鈴木賢一は木目込人形に独自の創造性を込めた作品を発表していきます。長い肩から腕、直線の伸びやかさが特徴の『富久雛(ふくびな)』。男雛と女雛の語らいと官女の動きある造形で「動と静」を表現した『月の鏡』‥‥。どれもが作家性を持ちながら、伝統から外れてしまうことはない。すべての作品が「古く江戸時代からあった」と言われれば、信用してしまうかのような重み、品格を持っています。おそらくそれは作家の欲求だけから生まれたのではなく、人形と対話しその声を聴き取った作品だから。そう、人形が「生まれたいと思った姿」であるからでしょう。
鈴木賢一は人形を前に謙虚でした。作家が人形を支配するのではなく、常に人形とともに生きる。そんな姿勢を貫いてきました。今、東玉工房に鈴木賢一の姿はありません。しかしその人形のつくり手の想いを継ぎ<賢一>を守り続ける弟子たちに確実に受け継がれています。
迷い、壁にぶつかった時、東玉工房<賢一>の職人たちは、人形と対話し、そして時に心の中でこう問いかけるのです。
「賢一先生、先生ならばどうしますか?」と。
参考文献:
『鈴木賢一作品集』
『人形界二百年』小檜山俊(社団法人日本人形協会)
ほか
PROFILE
鈴木賢一
すずき けんいち
大正7年9月19日 | 東京市浅草に生まれる |
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昭和6年 | 野口春彦氏に師事 |
昭和8年 | 師のご逝去にともない兄の野口光彦氏に師事 |
昭和15年 | 童宝美術院展初入選 |
昭和17年 | 結婚 |
昭和28年 | 第5回現代人形美術展特選 |
昭和31年 | 第12回日展入選 |
昭和39年 | 岩槻へ転居、東玉工房主任作家就任 |
昭和51年 | 日本工芸会正会員となる |
昭和54年 | 通産大臣認定伝統工芸士に認定(第1回) |
昭和55年 | 埼玉県知事より「平安童・歓び」を皇太子殿下(現天皇)に献上 |
昭和57年 | 東玉人形学院開校指導にあたる |
昭和63年 | 美智子妃殿下(現皇后)、紀宮様東玉総本店ご見学 製作実演をご披露 |
平成2年 | 勲六等瑞宝章受章 |
平成5年 | 埼玉県知事のご希望で皇太子殿下ご夫妻ご成婚祝のお人形製作し、 |
平成14年 | 東玉創業150周年記念作品展開催 |
平成16年 | 埼玉県無形文化財の認定を受ける |
平成17年~18年 | 月刊誌にんぎょう日本「人形師の系譜」12回に亘り紹介される |
平成18年 | さいたま市文化賞受賞 |
平成22年6月22日 | 逝去 |